大嫌いです。
自分がそうなっていないかと考えると、そこまで潔白ではないと思われます。息をしないで生きていけないように、何かは委託していると思います。人間なので自分がしたときとされたときの差がどうなかということかと思われます。
ついで、という善いことばがあります。同じことでもついでの範疇でできる人とボランティアにカウントする人とジョブにカウントする人がいます。
ついでを可能にするのは気配りで、気配りは気付きで、気づきは自分の所作の管理にも影響するように思います。
気付きの最初は自分の所作が何にどう伝わったかを認知することかなあと思います。
簡単なことでいうとどうして家の家具は違うところにいるのか、どうして絨毯が歪むのか、どうしてドアが軋むのかなどです。力がどう作用しているか認知していないとする人と回復する人が固定的になり、毎度回復する方はイライラを溜めると言う感じでしょうか。力を及ぼす前の記憶がないと変化にも気づきません。
ふたつのストーリーがあります。
ひとつは、ただのりと感じるのは回復者の懐が狭いだけで、情けは人のためならず、巡りめぐって還るものだと考えれば気にならないだろうというもの。
もうひとつは、ただのりの原因は作用者の気配り不足で気づき不足だというもの。
結局のところ両輪ですのでケースバイケースになってしまいますが、自分が気遣い不足でどなたかが不快にならないようにしたいです。問題は、自分が狭窄に陥っているときです。課題は大きいです。