よく使う比喩です。
例えば、演劇か何かの練習をするときに、役者さんだけで台本読みしたり、小道具つかったり、リハーサルのように本番に準じてしたりと変わる環境や、それらを決めたり演技を評価したりするスタッフさんのように、練習を構成するいくつかの条件があります。
神の庭と呼んでいるものは、その条件を制御できる、若しくは制御して整えられた環境のようなものです。
この場合のかみさまは監督さんになるのかと思いきや、まだでてきません。監督さんはその庭にいるひとりのプレイヤーさんです。かみさまは、その庭を作っている人ですから、実はなもなきスタッフさんかもしれません。
システムの世界では管理者という絶対権力者がいますが、我々は分権されているので、行使者と意思決定者が別に存在しており旨い仕組みだと思われます。さらに、かみさまが庭に干渉するのは、環境を変えるかどうかという点に絞られるのもバランスとして絶妙かもしれません。
AI対戦のシミュレーションゲームなどの対戦状況を見るような感覚です。駒の動きはすべて見ることができますが、駒の動き自体を決める意思決定者は画面の中(というかソフトの中)にいます。管理者はちゃぶ台返しはできますが駒に命令は与えられません。
よく話題になるのは、練習の成果を本人への還元ではなく(それは普通にするので)統計のため、今ですとビックデータというような単語がありますが、二次利用するときに、神は庭を開示すべきか、です。
なにもコントロールせずに公開するのは、8割がた無謀のような気がします。何をどこまでというのは、なかなか素敵な課題です。