マイ来歴にもいろいろあります。
自分のせいにされるのは嫌でした。
ゆみちゃんがいった
という免罪符に群がるおともだち
免罪符を疎んじてハブにするご学友
ゆみちゃんがいった、というと追及を緩める大人たち
気持ち悪かったです。
もちろん享受利益が大きかったが故の副作用であることは理解しています。
証拠はありませんのでただの気のせいと言い放つことも可能です。
こんな子供を持った親は大変だったろうと思います。
そんな小中だったので、高校からは埋没できることが心から嬉しかったです。
相当嫌悪しているのかSFもVIAも影響力系の資質は低く出ます。
保育園の頃多少勉強苦手な友達に時計の読み方を教えたら、中学になったころその子のお母さんに感謝され、意味がわからなかったのですが、親になったら少しわかりました。彼は友達から聞いたことはよく覚えている仁義の高い人だったので、親が教えてわからなくても、友達から聞けばできるのです。実際小学校になっても、いろいろ教えた覚えがあります。大人がいるあいだ彼は閉じているということで、それは勿体ないのだけどそのときの彼の価値観は友達がすべてたったのかもしれません。
大人が教えても伝わらないことがたくさんあって、子供コミュニティのほうが、よほど伝播が早い。
教室には、そういう位置の児童がいないと効率が悪いと思います。先生を増やすより、コストも効果も高い。
書いていて思い出しましたが、先日知人と申し上げるにはもう少しお慕いしている方との雑談で私の対応がほかの方と違う件についてお話してくださいました。その方は私の職場に作業にいらっしゃっていろいろな説明をしてくださいます。私は主要なメンツも集めて直接聞かせたのですが、おひとりで聞く方もいらっしゃるそうです。私の目的は直接聞くことで理解の可能性を広げることだと申しました。ほかにも言葉が組織の内外でちがうことを感じてもらうなどの効果があります。私が聞いて説明することも可能ですが、私と彼らの間にはいやがおうにも段があって、より近しい(利害関係がない)人から違う言葉で聞いたほうが飲み込みやすいかもしれないわけです。わからない同士で話してわかってるわーという不思議で面白い状況がよくある、と話したら笑っていらっしゃいました。
なにをするにしても、ネットワークの理解と活用の効果は高いと思われます。
あのころのような指令性の使われ方ではネットワーク効果が減るような気がするのです。
少なくとも、あの頃より、今のほうが生きやすいです。
気づきを提供できるソフトなインフルエンサーでありたいです。