とおい昔、嫌いな人は作らない、と決めました。
私が嫌いでなくても、チーム内で微妙な立場の人がいるときもあります。
私のこころのありようは、生まれ育ちを考えると論語が基盤環境にあることはほぼ間違いないのですが、影響を与えている経験はお経だったり人だったりもしますし、実は一番影響しているのは漫画や小説だと思われます。
それらの中に共通している価値観は、断定の排除と仮説や可能性の追求です。
初めてお会いする方について情報収集するとよいかたも悪い方も割れる方もいらっしゃいます。それはとある点から見た評価という情報資料として、私からみた評価とは別に置くべきものです。混ぜたら危険です。
悪く言わない、一周回るまでは判断しない、笑顔を向けてみる
この3つが私のルールです。
実際一周することなどできないので好き嫌いを総合判断したことはないです。
悪く言わないとはいっても~~できない~~しないという事実は端的に言うのでバッサリ切っていることは多々あります。邪推しないというほうが正しいです。
職務上とらざるを得ない態度もありますが、中の人はこんなことを考えております。
食べ物と同じというと語弊がございますが、嫌いというのは本人の器量でしかないように思われます。好きなものが多いほうが幸せです。
先日もとある方と話していて、悪い人ではないんだけど、どちらかというとむしろ善い人なのになあ、と考え込んでいます。民間の仕事への貢献指標はやっぱり利益なのかなあと思いましたが、ほかの案件を考えるとそうでもないので、話すのが下手なのかなあとぼんやり考えていました。
おとなって複雑です。それぞれの事情がある事実を知っていながら自分の都合で色を付けてしまうのは寂しいような気がします。色分けは不要です。
失敗はひとりではできません。というところに尽きるのかなと思いました。責任者は責任は取れますが要因が必ずそこにあるとは限りません。知っている人は知っている。我が身を思えば怖いです。
最近とあること以来妥協してきて嫌いに思う兆候がありますので、うまく処理できるようにしたいです。
蛇足です。
息子が帰ってきて自作焼きそばに野菜を入れていました。進化してるなあとうれしくなり成績悪いけどまあいいかと妥協しそうになりました。危ない危ない。お母さんはとっても厳しいのです。