時間の残酷さを再認識しました。
何度となく打ちのめされておりますが、今回の仮説は「効率化とはより生産性の高い人に難しい課題をさせる時間を増やすこと」でした。
会議で拘束される時間を減らすために資料を事前に配布して集まった時間は焦点の討議に集中することは、ひとつの手段です。
生産性の高くないひとは解説がないぶんもしかするとより時間をとられることになります。あきらめて見なくなり時間的に軽くなる場合もあります。
資料がどれくらい読めるものなのかは、読む人の力と資料を作る人の力とのバランスです。
読めるひとは読める、読めないひとは読めないとなると、会議になりません。
結果意見も出せず不利益を被り格差が広がるという脳内展開がありました。
読めなかったことを資料だけのせいにするのは、これも実は極端です。
知識不足の対策も対局にあります。