久しぶりに思い出しました。
儒教では基本となる概念と教わった覚えがあります。
世の中が正規分布であるならば、真ん中にいるほどことばが届く対象は多くなるものです。
場所的にもというよりはレベル的にです。
分野にしろ概念にしろ離れすぎていると届かないのでストレスになりますので、多様性の受容と蓄積は大切です。
自分をもたないと流されますので芯は必要です。
そういう意味では息子も娘もよい線をいっていて、私がどう感じようが彼らが良ければよい話です。
磨かずに役に立てると思っているのであれば傲慢だと思いますがさてどうでしょう。