最後まで見届けることなのかなと思います。
結果を受け入れること、なのかなと思われます。
責任をとる、引責、というと、どうにも詰め腹を切らされるような落とし前をつけるような、誰かが不幸になることを想像してしまいます。
引責するときには被害があったときで、被害を補償できないのでそのような落としどころになるような気もします。
とはいえ、被害がない結末のほうが世の中多いような気もします。
そうすると、責任をとるということは、結果を受け入れることなのかなと思われるのです。
それは、自分が積極的に、直接的に、アクティブにしたことだけでなく、パッシブに、消極的に、間接的な関係のものもあるのだろうと思われます。
前者はそれなりに自覚があると思いますが、実は大切なのは後者のように感じます。
後者を意識すると他社への責難の意識が柔らかくなるように思われます。
直接コントロールができないことは、おのれの有限さゆえにコントロールしている人たちに依存していることであって、あげつらうのもどうかなと、大概思います。